第4回コンサート 曲目について(文:伴野涼介)

アゴスティーノ・ベッローリ/四重奏曲 第2番

Agostino Belloli/2. Hornquartet

  1. Allegro  2. Andante cantabile  3. Minuetto, vivace  4. Rondo, Allegretto

 

 アゴスティーノ・ベッローリ(1778-1839)の名前は管楽アンサンブルやホルンのエチュードで名前をまれに見るだけで、ほとんど知られていないようです。その生涯も詳しくは明らかになっていませんが、ミラノ・スカラ座の第1ホルン奏者とミラノ音楽院の教授を務める兄のルイージ・ベッローリ(1770-1817)が急死したのち、それらの職を継いでいます。ルイージともう1人の兄ジュゼッペ・ベッローリ(1775-?)もホルン奏者で、ルイージの息子ジョヴァンニとジャコモもまたホルン奏者だったようです。ホルンブラザーズ&サンズ。

 1800年前後のホルンアンサンブル曲というと二重奏曲や三重奏曲が大多数で、本格的な四重奏曲は少数でした。その中でアゴスティーノの書いた四重奏曲2曲と小四重奏曲はこの時代の四重奏曲の貴重なレパートリーになることでしょう。

 このホルン四重奏曲第2番では1stホルンの音域が古典時代からの「上吹き」のパートに比べると全体的に低めに設定されて、全曲をとおして安定感と「旨味」のある響きを聴いても吹いても楽しめます。もしかしたら、古典派からロマン派へと移りゆく中でのホルンの響きの変化過程を感じられるかもしれませんね。

 現代のホルンでの演奏もおすすめの一曲です。

 調の指定なし。E♭(変ホ調)管を採用。ナチュホ東京のCD「re-Discovery」に収録。

 [楽譜:Robert Ostermeyer Musikedition, ROM38]

 

アレクサンドル・ジャヴォー/異なる調のホルンのための3つの四重奏曲 より 第2番

Pierre-Alexandre Javault/Deuxième quatuors pour cors en différens Tons

 1. Allegro moderato  2. Andante Gracioso  3. Moderato 

 

 この曲の作曲家はピエール=アレクサンドル・ジャヴォー(1785- ?)と推測されています。推測…というのは、唯一残っているこの曲の当時の出版譜では作曲家名に「A.Javault」とファーストネームがイニシャルしかなく、クロード・モーリー氏の解説よると、さまざまな状況証拠から同時代の作曲家Pierre-Alexandreと同一人物であることに疑いの余地はないそうです。

 ジャヴォーは、その人物についてもほとんど知られていませんが、ルイ=フランソワ・ドープラと近しい仲であったようです。この「3つの四重奏曲」の表紙には「ムッシュー・ドープラへ贈る」とあり、一方ドープラは「高音ホルンとピアノのためのソロ集 op.17」をジャヴォーに捧げていることからもそのことがうかがえます。

 この3つの四重奏曲は1821年から1822年の間にパリのボイエルデュー Boieldieu から出版され、この版が現存する唯一のものです。3曲とも1st G管、2ndと3rd F管、4th C-basso管が指定されていますが、この調の違う管を組み合わせる用法は1817年以来ドープラによって試みられたもので、ドープラの生徒のジャック=フランソワ・ガレ(ギャレー)のホルンアンサンブル、管弦楽作品ではエクトール・ベルリオーズやカミーユ・サン=サーンスらの管弦楽曲にもその影響が見受けられます。

 四重奏曲第2番はシンプルななかに垣間見られる一風変わった展開も面白い小品です。

 今回はクロード・モーリー氏によって校訂された楽譜を使用しています。

 [楽譜:Editions ACor 2010]

 

アントン・ライヒャ/24の三重奏曲 op.82 より 第4集(第19〜24曲)

 Anton Reicha(Antoine Reicha)/24 Trios pour trois cors op.82, 3ème  Livraison

19. Lento   20. Contrepoint double à l'octave. Allegretto   21. Allegro   22. Lento sostenuto - Allegro spirituoso   23. Menuetto grazioso  24. Finale. Allegro Scherzando

 

 日本ではドイツ語でのアントン・ライヒャ(1770-1836)という呼び方に名染みがあるかもしれませんが、国により名前の表記が変わることはよくあることで、出身のチェコ名でアントニーン・レイハ Antonín Rejcha、帰化したフランス名ではアントワーヌ・レイシャ Antoine Reichaとなります。

 ライヒャはプラハのパン職人の家に生まれますが、間もなく父親が亡くなり、10歳のときに母親の教育への無興味から家を出ることにしました。ドイツにいたチェロ奏者・作曲家の叔父ヨーゼフ・ライヒャ(1752-1795)にひき取られ、ヨーゼフ夫妻の養子として音楽と語学の教育を受けました。ライヒャは1785年にボンに移り、ケルン選帝侯マクシミリアン・フランシスの宮廷楽団のヴァイオリンとフルートの奏者となります。そこで同僚となったのが同い年の有名なヴィオラ奏者、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)でした。ボン大学ではご学友としてお過ごしになられたようです。

 ライヒャはそののちハンブルクやウィーンを経て1808年にパリに移り、1817年からパリ音楽院の作曲科の教授となります。フランツ・リスト(1811-1886)やエクトル・ベルリオーズ(1803-1869)、セザール・フランク(1822-1890)らが彼のもとで学びました。1829年にフランスに帰化しました。

 現代でもホルンアンサンブルの有名なレパートリーの「24の三重奏曲」はそれぞれ6曲ずつの4冊に分けられる形で1815年にパリで出版されました。ライヒャはのちに音楽院の教授となるホルンのヴィルトゥオーゾであるルイ=フランソワ・ドープラ(1781-1868)に影響されてこの曲を書き、作曲するにあたってはドープラからホルンの技巧についての助言も受けたようです。ふたりの親交は深く、ライヒャはドープラのために「ホルンと弦楽四重奏のための大五重奏曲 op.106」を書き、ドープラも「6つのホルン三重奏曲と6つのホルン四重奏曲op.8」をライヒャに献呈しています。ライヒャの一連の木管五重奏曲もドープラがメンバーの五重奏のために書かれたものでした。

 ナチュホ東京は第3集まで(第18曲まで)を過去のコンサートで取り上げており、本来であればライヒャ生誕250周年であった昨年の完結をめざしていましていましたが、1年遅れまして、今回で「24の三重奏曲op.82」はめでたく完結!となります。祝生誕251年。

・・・・・・「12の三重奏曲op.93」、それはまた少し先のおはなし。

  調の指定なし。E(ホ調)管を採用

[楽譜:Robert Ostermeyer Musikedition, ROM124]

 

L.-F.ドープラ/異なる調のホルンのための六重奏曲 op.10 (大六重奏曲)

Louis-François Dauprat/Sextuors pour cors en diffèrens tons

  No.1 Lento - Allegro risoluto    No.2 Minuetto, Allegro moderato   No.3 Andante No.4 Minuetto, Allegro    No.5 Adagio    No.6 Allegro moderato

 

 ルイ=フランソワ・ドープラ(1781-1868)はパリに生まれ幼少期から音楽の教育を受け、1795年に国立音楽学院(現在のパリ国立高等音楽・舞踊学校)に入りヨハン・ヨーゼフ・ケン(1757- 1840)のもとでホルンを学びました。また、1811〜1814年に作曲法と対位法をライヒャに師事しています。

 ドープラは1806〜1808年ボルドー大歌劇場の首席奏者、1808年〜1831年パリ・オペラ座の首席奏者、1828〜1838年パリ音楽院管弦楽団の首席奏者、そして1832〜1842年ルイ・フィリップ王の宮廷楽団のメンバーなどを勤めました。1802年には師のケンから国立音楽院の教授職を引き継ぎ(当初は代行。1816年に正式に就任)、ジャック=フランソワ・ガレ(1795-1864)がその後任となる1834年まで務め、ドープラはとくに生徒のためにメソード(高音ホルンと低音ホルンのための)と多くの作品を書きました。また、あたらしいホルン(ヴァルブホルン)にも興味をもち、そのメソードも書いています。

 旧来のホルンアンサンブルではどのパートも同じ調のクルーク(F、EやE♭管が多い)を使うことが一般的でしたが、ドープラは「6つの三重奏曲と6つの四重奏曲 op.8」のように違う調の管を混在させる書法を試みます。同一の管で演奏した際の低音域の音列の不完全さを避けることができたり、さまざまな管があることで異なる響きが得られ、豊かなハーモニーと音色のヴァリエーションの可能性が与えらる(短い管の輝かしく鮮やかで鋭い音が交互にメロディーを彩り、C-basso管やD管の深く暗くメランコリックな音が中間的な音色をつくる)、といったその利点を挙げています。。。しかし、その管にとって合理的でない調の作業を割り当てていることもしばしばあり、ドープラのムチャ振りに笑えてきます。

 op.8で見せたG管からC-basso管の組み合わせに加えて、この六重奏曲ではドープラが高音にはA管からC-alto管(クルークはもはや棒)まで、低音域にはB♭-basso管を指定し、より広い音域の響きをつくりだしています。ところで、こんなにC-alto管が使われる曲はほかにあるでしょうか?

 この曲は仲間たちのために書かれ、師のケンに献呈されました。1815年に初稿が出版され、ドープラ自身も参加して1817年に初演、1830年に改訂されています(今回は改訂稿を使用)。

 当時は現代よりも高音ホルン(Premier cor)と低音ホルン(Second cor)の奏者の担当音域が現代よりもはっきり区別されていて、ドープラは「ひとつのマウスピースでホルンの4オクターブもある音域をマスターするのは不可能だ。それぞれサイズの違うマウスピースを使って、担当音域を高音奏者と低音奏者で分ける必要がある」とも言っています。

 この六重奏曲は3つの高音ホルンと3つの低音ホルンのために書かれており、その役割分担にも注目です。そして、各パートの使用クルークは以下のように。

 [楽譜:Gérard Billaudot]

  No.1 No.2 No.3 No.4 No.5 No.6
1.Premier cor C-alto C-alto C-alto A B♭-alto C-alto
2.Premier cor G G G G F G
3.Premier cor F F E E E♭ F
1.Second cor F F E E F G
2.Second cor D D D G E♭ D
3.Second cor C-basso C-basso C-basso D B♭-basso C-basso